人生が辛くて人間辞めたい…人間をやめる前にやめてみる6つの行動
人生がつらすぎます、人間やめたいです、もう生きるのに疲れました。現在、非常に大きな苦悩を抱えております。
この状況から脱するには人間をやめるしかなさそうで、人間をやめて猫にでもなりたい心持で、だが察するにこれまでの人生考えるなら、猫になることさえ許してくれない。それなら草木や石くれにでも。それさえも思い通りにさせてくれないのならこの世界から辞退します。とにもかくにも人間辞めたい。
人間辞めるは詰まるところ生きることの一手であり、一手であるなら他の手もあるはずで、盤上よくよく見渡せば、わたしの陣、世界から詰まれに詰まれているわけでもない。人間をやめるまえにやめるべきことがあって、やめてよさげなものもあって、そんな行動6つほどをご紹介したいと思います。
人間やめたいです。生きるのやめたいです。
生きるの下手くそすぎて人間辞めたいな?
— ほしいも (@ilybyay_) 2019年4月25日
この呟き、分かる分かる。
どうやらこの世界、生きるのにはうまさ、へたさがあるみたいで、器用、不器用あるみたいで、それはわたしの誕生、うぶごえより始まっているようであり、おぎゃあおぎゃあの音声にもうまさあり、へたさあり。
しかしどの赤子も、美しきソプラノボイス、ビブラートかけておぎゃあおぎゃあとは泣かないものであり、ではいつごろから、こんなに、あんなに、よその人と生きるうまさに差がついたのだろうか。
現実が本当に鬱すぎて人間を辞めたい
もう植物でもいい— こづみそ (@m_froghard) 2019年4月24日
植物は植物なりの苦悩や哀しみあれど、うつうつとした気分にさせる人間的な現実。
両親との不和、貧しきワンルーム暮らし、もやし炒め、仕事が決まらない、仕事が決まった、これ何の仕事ですか?労働が仕事にならない、職場でのあらゆるぎこちなさ、いろんな場所でずれにずれ、やがては我が身とわたしまでもずれてしまい、精神的苦痛かつ肉体的苦痛。
お釈迦さまが、世界は本気でしんどいです、と説かれるくらいだから、やはりこの世はしんどいのであって、この世界とはいうのはしんどさに耐えるためのチキチキ憂鬱耐久レースのように見えてくる次第であります。
世界がそう見えてしまうものを意識改め、そう見えなくしましょうというのはどだい無理な話であって、それでは頑丈な耐久性でわたしを強化すればよいのでしょうか、しかしそうであれば依然、世界はチキチキしている。
それでは人間をやめてしまおうか、いや、いったんは人間をやめる前にやめてよさげなこと、やめてみてみること、やめてみるべきことを。憂鬱の分量と等しい数だけ憂鬱打ち消す手段があると信じたい。
人間をやめる前にやめてみること
ロシアの作家トルストイの言葉。幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
人間辞めたくなる事情もどれもこれも同じようなものでなく、てんでんばらばら。身の上分からず、ポジティブに!などと書いてしまうのは不可能であり、無礼であり、何様のつもりですかの失態であり、何よりも無様である。
ゆえに、あてずっぽうの状況設定でへたに話を進めるのはよしとせず、わたし、何度でも人間をやめたくなっておりましたが、一方、本格的には人間をやめるには至っておりません。人間をやめるまえにやめるべきことたくさんあると気づき、実行中であります。そう、いまだにトライアンドエラーというやつで、つまりはやめるべきことの試行錯誤中。
つまりは参考にしてくださいという代物でなく、こんなことしました、していますの報告をさせていただきます。
1.孤独な時にこそスマホをやめた
ひとりぼっち感覚。そう、だいたいの場合は孤独は感覚的なものであり、これがはっきりした形のないものだから厄介でもある。
孤独というのは難しい。学校やら街やらで、友達の、群衆のなかにいて、わらわらしながら孤独である。誰かと何をやっていようがつまらなかったり、失敗してしまったり、裏切られたり。不愉快です、と。
一方、自室に引きこもる、一日のうちに発声するのは目の前のコンビニ店員だけであり、あまり声出さずにいるからボリュームの調整が困難ででかい声になる、そんな孤独。
ネット記事の文章で、スマホをやめろというのはパラドックスも甚だしいが、しかしこれはある時期試みてみて、有効だった。スマホをやめないにしても、遠のけるくらいが程よいか。
人はあまりに不用心に、他者とつながり、相対化する、比較したがる、他人を知りたがる、これが時々、毒になる。
服の選び方やら喋り方やら休日の過ごし方やら、常識的な生き方やら成功の形やら幸福のあり方やら、知らず知らずに、自分の人生や価値を規定する何物かとなっておるのがこのスマホというやつで、その何物かが脳みそのなかに知らず知らず入り込んでこう囁きかけてくる。あなたの人生、あんまりうまくいってませんね。
最低限の連絡用のスマホ。これでよい、これでよいのだ、とわたしは自分に言い聞かせ、なるべくインターネットだのSNSだのアップルだのから距離を置いたら、考えること、感じること、行動の仕方が違ってきた。そして今、きちんとした自分を持ったうえで、またつながっている。
2.ふわふわした友達や人間関係をやめた
現代ではスマホをやめるとほぼ同義、友達付き合いをやめてしまうのも有効だった。
誰かとつながることは孤立しないことであり、孤独を感じないことであり、そうあるのが正しく、健全で健康的であるという誤解。むしろ、誰かとつながっていることが孤独を感じさせるものであり、いや厳密にいえば、そのつながっている誰かが、誰なのかというのが肝であろう。
友達はいなくてもよい。友達はいなくても人間関係は構築できる、それももっと有意義な。
ふわふわした人間関係で時間を消費させるのはもったいない、もったいないと感じたわたしは自らに生きる目的を立てて、それに向かってなりふり構わずに生きる、生きる、生きるをしていたら、ふわふわした友達の代わりに、わたしを充実させてくれる、いろんなことを学ばせてくれる本当の人間関係ができた次第であります。
3.とりあえずで生きるのをやめた
人間関係を整理しはじめた当初、友達がどんどん減るのが目に見えて実感できるので不安になり、職場やコンビニやスーパーにいる者らのほか接触せず、狭い部屋でひとりきりでいると確かに淋しい、しかし、淋しいからふわふわした連中と関わったり、ふわふわした時間の過ごし方をしたりするのでなく、今何をするべきかを真剣に考えた。
とりあえずで生きるのをやめた。とりあえず生きていることで大きな悩みを抱えるようになったのだと気づき、いや正確にいえば、とりあえずで生きている時間をその都度その都度、減らせばよいのだ、いつでもどこでも自らの意思で進路をとり、選択し、実行に移そうとすれば、とりあえず生きている時間が短くなり、苦悩を回避できたりなんなりとなるのではないか、と。
4.仕事をやめた
仕事を始めた時、それは疑いもなく自分で選んでいる。わたしは求人サイトを見て、これに応募しようと選択し、面接を受けて入社。
働きだすと気づけば、とりあえず生きている時間が多くなっており、そんな折、何かとんでもなく苦しい問題が生じてしまい、それでもとりあえず生きていれば、当然、苦しい。とりあえず苦しんでいる。
とりあえず生きるというスタンスでいるときに苦しむから、いつまでも続きそうに錯覚される苦しみをだらだら続け、事実、とりあえずで生きていたなら、苦しみは延々と続いてしまうかもしれない。
それならとわたしは仕事をやめた。当たり前だが、その苦しみは消えた。だが、これだけではいけないのであって、わたしはとりあえず生きないように将来を考えなければならなかった。そうでないと、次おんなじような苦しみに遭遇したとき、またとりあえず苦しみ続けてしまうはめになる。
5.中途半端な解決法をやめた
頼れるものには頼ろうと思い、ただし、有効なサポートを選んで頼ろうとした。
風邪をこじらせた人が本当に必要なのは栄養ドリンクではなく薬なのであって、同じく、悩んでいるとき、ふわふわした誰かに相談を聞いてもらっても解決には向かないのであって、本当に苦しければ本当に問題解決できる手段を求めるべきだ、と。
一時期、気が狂ったように心が不安定だったわたしはやはり、心療クリニックに通っていた。あるいは、人生を大きく変えたいと感じたわたしは仕事を辞めたり引っ越しをしたりした。
環境をがらりと変えるような行動は一見、大胆なように見えるけれども、それは解決法として理に適っており、適い過ぎているからこそ極端なように見えてしまう。しかし問題を解決できるほどの方法なのだから、それくらい大胆なものであってもおかしくはないはず。
胃の腫瘍を取り除くとき、その手術では腹をぱくりと切ったり口から管を入れたりとやはり極端なほどの作業をしているが、しかしそれはそれくらい必要だからしているのであって、つまりはこういう大胆な印象は、すべての有効な解決法が共通して持っている性質といえそうだ。
反対に、問題に対してその解決法があまりにも簡単なものであれば、その方法ははたして効果的なのかと疑った方がよいこともある。もちろん極端がいいという話ではないが、ちまちま控えめな行動だけでは何ら問題の解決にならないこともよくある話。
人間辞めたいほどの苦悩を解消しようとする行動なのだから、大胆さや度胸、覚悟や決意もある程度は必要であろう。
ところが困ったのは現状のメンタル、現状の環境からして、そんな風にしたくてもできないこともあるということ。だから、わたしは頼れる存在、甘えられる存在に甘えないでおこうとする考えをやめた。
6.親や頼れる人に甘えないのをやめた
わたしは両親とそれほど仲が良くなく、それが原因で家を出たのだが、20代くらいだと、自分ひとりでがんばって生きていくことはとてもよいことであり、常識であり、自然であり、なんなら、そうならなければならないほどの義務であると本気で思い込んでいたこともあった。
社会通念やら儒教的精神やらプライドやら何やらとがまじりあって、積極的にしんどさと関わり合っていくのがふつうであると思っていたわたしは、そういう考えをやめた。
30代に入るまえ、わたしは今の人生をやり直そうと思った。しかし、やり直すには、あきらかに経済的にも精神的にも、自分ひとりで生活を営んでいる限り、実現できないと判断した。
要するに、ちまちました軌道修正だけしかできない状況だった。しかし、わたしはとりあえずで生きるのをやめたかったし、中途半端な解決法ではいけないと思っていた。
だからわたしはぎくしゃくした関係であった親に頭をさげて、出戻りさせてもらった。出戻りすることで生活を立て直せることができたし、なぜだか親子関係は修復できもした。
周囲はそんなわたしを情けないとかなんとか思うかもしれないが、これがわたしにとって実際的で有効な方法だった。現実に即した解決法だった。
常識や生活信条うんぬんさえ捨てれば、わたしは別な風に生きることができるのだ、少なくとも別な風に生きるためのチャンスを作れるだと気づけた次第であります。
まとめ
本当に人間を辞めたほうがいい人ほど人間をやめたいとは思わずに気楽に生きているような気がします。
何かしら苦しみがあって人間やめたいと思うあなたは人間をやめるのには不向きな人間であるため、人間のまま暮らしましょう。一度、人間をやめる前にやめるべきことはないかなと自分なりに考え、行動してみてはどうでしょうか。